半地下の広い溝の底を都心に向かう線路が西へ走っており、それを跨ぐ陸橋の上から、日没直後のほんのひと時だけ、西の地平に富士山が姿を現す日がある。夕陽が空にある間はそれらしいものはなにも見えないのに、地平の後ろに沈んだ太陽から射す光が、山容を黒い台形としてあぶり出すようだ。冬の乾燥した快晴の、日没後十分間ほどに限られる。この地に流れ着いた新住民が、在所の人からここが冨士見のポイントと聞いたわけでも、ガイド本や地元紙の記事から知ったのでもなく、徘徊の末に恩寵のように出くわした発見なのだった。陸橋に立ち尽くして眺めていると、つられて足を止める人もあり、よそ見などせずに足早に通り過ぎてしまう人もある。他所者とはいいながら、移り住んで二十余年、何百回、脇目もふらずにこの陸橋を渡り、何度、見えているのに見過ごしてしまったろうか。暮色は茜から濃紺へとすみやかに深まり、やがて富士山も夕闇に溶けていった。
富士山が見えることをなぜこれほどありがたがるのか、我ながら不思議だ。優美な姿ではある。この賛美が嵩じれば、無神論者にも信心が兆すか。その初期徴候ではあるかもしれない。