約束の地

  
 ベランダには山椒の幼木の鉢植えがある。近くの森から根ごと引き抜いてきて植えたものだ。新葉は筍の木の芽和えには必須の材料だし、お吸い物や冷奴の薬味にしても美味しい。花が咲いて実が生るまでに育てば、実山椒まで楽しめる、と、人攫いの所業ではありながら鉢で育てている。自生地の森のやや湿った日陰とは違って日射が強すぎるのか、水やりは欠かさないのだがなかなか成長しない。乱暴に引き抜いて移植したけれど、いたいけない幼木の葉を毟るのは勿体なくて、本当に食材として欲しいときは、また森に行って、もっと大ぶりな木から枝を数本手折ってくることになる。鉢植えの幼木はだんだんに葉を茂らせ、小さいなりに棘も鋭く硬く尖ってくる。柑橘類の高い香りは鳥や虫も好むのか、寄ってくる捕食者への防御なのであろう。最大の捕食者といえば人間かもしれない。枝を手折る時はよほど慎重にやらなければ、鋭い棘に刺され、血も出ない小さな傷でも疼きは長く続く。つつましくも手強い武装だ。
  
 ベランダの山椒の小木に、黄揚羽が飛来した。孕んだ蝶が産卵に来たのだ。追い払っても、追い払っても、逃げない。ここしか産卵の場所はない、孵化した幼虫のよい餌になる葉が茂っている木はここにしかない、と思い定めているかのように逃げない。陣痛が始まってもう待てないのかもしれない。あるいは芳しい柑橘の樹液が産気を亢進させたか。この木は初夏に一度、やはり黄揚羽の幼虫にたかられて丸裸にされた。幼虫は棘などものともせずに枝から枝に渡り、一葉残さず食い尽くして、まだ足らぬげに頭部を蠢かしていた。許さぬ、と幼虫を成敗した。山椒はもう枯れてしまうかと半ば諦めていたのだが、それでも水やりを続けていたら、秋が立つ頃にあちこちから芽吹いて、ようやく葉が茂ってきたところなのだ。もしかしたら、初夏にこの木で育った別の姉妹が生き延びて、生誕の地に帰ってきたのだろうか。いや、成虫の寿命はそんなに長くなかろうから、もう一世代か二世代後の子孫かもしれない。いずれにしろこの蝶は、このベランダに餌になる山椒の鉢植えがあることを探し出し、産卵にきたのだ。どれだけの距離を飛び回り、なにに導かれてここを見つけたのだろう。その遍歴を想って、追い払うのを止めた。産卵が終われば、蝶はもう死に絶えるのみだ。陣痛に急かされ、瀕死の羽ばたきでこの山椒の小木にたどり着いたのだ。
  
 なんと壮大な生命史の一齣であろうか。ある男が、新開地の集合住宅に吹き寄せられるように流れ着き、そこのベランダで手すさびに山椒の小木を育てた。それを目敏くも見つけた揚羽蝶が、その木に卵を産み着け、山椒は孵化した幼虫に食い尽くされて丸裸にされた。男は怒りに駆られ、幼虫を殺した。ただ、小木はそれでも枯れず、またしぶとく芽吹いて葉を茂らせた。そして再び、どこからか飛んできた揚羽に見つかり、また産卵された。アフリカを出て何千世代かの末裔が育てる山椒の木と、ふらふらと飛んでいるだけようにみえながらそつなくも雄と出会って交尾もし、しかと産卵場所まで嗅ぎつけた蝶が、いまここで交差した。