右耳は失聴し、聞こえない。
聞こえる左耳を塞ぐと音が絶え、
静寂ではなしに沈黙の音が広がる。
耳鳴りなのか幻聴なのか。
聴力検査を受ける。
電話ボックスのような箱に入り、
丸椅子に腰掛け、
耳朶を覆う大きなヘッドホンを掛ける。
音が聞こえたらボタンを押してください
聞こえなくなったら押すのを止めてください
と指示され、ドアが閉じられる。
かすかな発振音が徐々に大きくなりやがて減衰して消えるので、
聞こえ始めたらボタンを押し、消えたら離すと自分に言い聞かせ、
なぜか眼を瞑り
耳に注意を集めようと身構える。
耳鳴りが徐々に大きくなり、やがて
耳孔を巡る血が血管を過ぎる音かと疑う。
その底で微かな音が滲みだし始めたかと怪しむ。
眼を凝らして闇の奥を何秒も見つめ続けると、
明滅する蛍の微光が見える気がする。
いや叢の奥に咲いているドクダミの白い花びらだろうか、
紛らわしくなり、いっそう眼を凝らすと
緊張の度を超えた視覚に痺れが生じて幻覚が現れる。
音が徐々に大きくなってくるような気がして、ボタンを押す。
いや気のせいだ、ボタンを離す。
でもまだ聞こえる、ボタンを押す。
やはり錯覚だ、ボタンを離す。
右耳からでなく左耳からのようだ、またボタンを押す。
それでも確信はない、ボタンを離す。
無音に耐えられなくなった聴覚が作り出してしまう幻覚か。
待ち望んでいる音を聞いてしまう、
福音を。
もう誰への、何の合図かわからぬままボタンを押す。