人形始末

 大きな着せ替え人形を始末した。子供ができた頃に人から譲られたもので、チカちゃんと名付けられ、幼い子供たちの遊び相手になってくれた。頭と手足は少し弾力のあるシリコン、髪は人造の赤毛、胴と腕と脚は綿を詰めた布製で、2歳児ほどの大きさだった。腕と脚の関節は曲げることができたが、微笑みかけた表情は不動で目は開けたまま、それほど精巧なつくりではなかった。子供たちが成長して、もう人形遊びをしなくなってからは処分しかねて押入れの隅に転がされていた。人形供養のような儀式もなしに捨てるのが憚られたのは、その人形の稚拙ななりの人臭ささからか、その人形に注がれた子供たちの涎と汗の記憶の引力からか、祟りを怖れる原始心性アミニズムからか、それらの混交ではあったのだろう。掃除をする度に始末しなければと思うのだが踏切りかねて、茫々何十年かが過ぎた。
 それを、今朝、生ゴミとして処分した。何がきっかけだかわからない。ものの弾みで、とか、出来心で、とか云う他に説明の付けようがない。しかつめらしく云えば、何十年ものあいだ知らぬ間に蓄積されてきた促しが、今になって閾値を超えた。表面張力で盛り上がっているコップの水に最後の一滴が垂れて水がこぼれ出た、というようなことかもしれない。
 半透明のゴミ袋にそのまま押し込めば、ゴミ回収業者が幼児遺棄と見間違えたりして厄介が生じそうで、腕と脚がバラけないようにガムテープで胴体に縛りつけ、俵のような形にまとめてから、さらに紙袋に入れて中身が見えないようにした。ガムテープを巻きつけるときも紙袋に詰め込むときも、なんだか屍体を処分しているような手触りが残って、目をそらせながら作業したのが我ながら可笑しかったが、想像がゴミ焼却場で他のゴミとともに燃やされる場面まで引っぱられたりもせず、粘りもしなかった。
 こうやって俺も始末してくれればいいのだが。いずれ葬儀屋が感傷抜きで事務的に処置するのだから、まあ大差はない。