「臨界通信」のころ

 「臨界通信」は、1979年から80年にかけ2号まで出し、その後は続かなかった個人誌である。当時勤めていた会社が、まだごく珍しかったレーザープリンタを導入し、その導入プロジェクトの担当でもあったので、業務の隙間に、それを使ってこっそり作った。レーザープリンタは今ではとても小型化し、個人でも卓上に置いて手軽に使える装置だが、当時は何千万円もし、図体も巨大で、専用の部屋に設置されていた。
 漢字を処理できるプリンタがまだ非常に希だったし、コンピュータで漢字を処理する環境も整っていなかった。JIS規格のコードが制定されて間もない頃で、漢字の16進コードを穿孔紙テープ(!)から入力し、その入力を整形編集してページを構成する自作のプログラムを通してプリンタへ出力する、というきわめて野蛮な方法だった。夜なべして漢字の16進コードを拾い、データ修正とデバッグをこき混ぜて強行した記憶がある。
 プリンタが連続紙に印刷した数ページをつながったまま蛇腹折にし、というか連続紙の折り畳みのまま、上下のスプロケットホールはカッターで切除して片端をホッチキスで綴じただけの、手作りそのものの簡素な体裁だった。道端で売ろうとは思わなかった。30部ほど作り、友人や尊敬する詩人・評論家に送付した。芹沢俊介氏から激励の葉書を頂いたのが唯一の反響だった。

 掲載した作品の内容とは別に、いかに原始的ではあれ、電子出版の草分け事例ではあるだろうと、記録にとどめておきたい。