現代詩手帖年鑑

現代詩手帖12月号が届いた。アマゾンは避けて、版元の思潮社に直接注文していたものだ。目に付いたのは、宛名ラベルが手書きだったことと、封筒を閉じているガムテープが刃物でなく手で千切られた跡が明瞭だったことで、手作り感が濃く、かえって荷造りに手間が掛ったのではと恐縮した。アマゾンがはねる上前を超える手数を強いたのではと恐れるが、アマゾンから見透かしたような広告が来る[注1]のは減らせる。しかも支払いは同封の振替用紙で後払いと鷹揚である。
12月号は年鑑と称して、その年の現代詩の動向を総括する座談や評論と、編集部が選定した100篇を超す詩作品が掲載される。もう何十年かその形式が踏襲され、12月号だけは毎年欠かさず買ってきた[注2]。それをトイレに置いて、用便のたびに開いて、切れぎれに読み継ぎ、冬の間に読み終わる。それからもういっぺん座談や評論にもどり、言及されている詩作品が載っていればそれを目次から捜して、改めて読む、という読み方をするので、だいたい全編に2回は目を通していることになろうか[注3]
率直に言えば、現代詩の世界は、九割がた病者の譫言うわごとの世界である。そんなものに延々と付き合っているのはなぜかと問われれば、私もまた同病だから、という外ない。

[注1] アマゾンで本を検索したり注文したりすると、その記録は履歴として蓄積され、同じ本を買った別のユーザはこんな本も買っていますよ、こんな本にご興味がお有りでは、と次々に広告のメールが届き、結構的を得ていたりする。当たらずといえども遠からずだったり、未知の著者に導いてくれることもあって、本屋のそぞろ歩きの代用にもなるので、大きなお世話と広告を断りもしないでいる。けれど、やはり薄気味悪さは消せない。

[注2] 定期購読で送られてくる雑誌は「試行」が最後になるか。「試行」は宛名ラベルでなく、封筒に直接、ペンで宛先がしたためられていた。毎号、同じ手跡の、楷書の達筆だった。

[注3] したがってその間、現代詩手帖年鑑はトイレに置きっぱなしになる。家族が、それをどう思って見ている(た)か、わからない。手に取って見ていれば、変な夫、妙な父と気味悪がられるはずだが、それについて直接なにか言われたという記憶はない。不思議なことだ。その他、トイレには湯浅浩史「花おりおり」や石川九楊「一日一書」、写真集「ナノスケール」「Bone」、星座表、図鑑各種などが置いてある。