キーボード

 英字という奇妙な言葉が流通しているが、もちろんアルファベットのことで、まあ英語の世界覇権の余波のような誤訳語というほかない。IT業界で文字種を表すANKという略語はAlphabet-Number-Kanaの頭文字から来ていて、英数カナと言い換えられたりする。アルファベットとアラビア数字とカタカナの組のこと示す用語だ。ここでもアルファベットが英字とされている訳だ。日常的に眼にするのは日本語キーボードのキーで、「英数」という刻印のキーがスペース・キーの横などにある。「英数」は英字数字の略称のつもり、つまり英語のalphanumericという合成語の訳語なのであろう。Alphabetにはローマ字という和訳があり、正統はこちらであろうが、上記の事例ではローマ字という訳語は徹底して排除されている。排除という意図的な選択ですらないかもしれない[注1]
 そのキーボードで日本語を、つまり漢字仮名混じり文を入力するわけだが、そのときに利用するのがかな漢字変換プログラムである。FEPとかIMEとか呼ばれている。数千におよぶ膨大な文字種を百種類そこそこのキーから入力する方式として、なかなか偉大な発明といってよいであろう[注2]。1970年代からほぼ半世紀の改良を経て、それなりに洗練されてきていても、賢いのか間抜けなのか、思い通りの変換がされなくて、呆気にとられたり、苛立つことは稀ではない。誰に向けて腹を立てているのかわからないまま、人工知能が進化して人間を追い越す日が近いなどというのはどこの星の話だろうか、それよりまずこの変換をなんとかしてくれよ、と毒づいたりする[注3]。書字という意識と無意識の境界域で行われる行為に介入するプログラムだから、こんなことを続けていればなにか空恐ろしいことが進んでいるはずだ。字を忘れ、手書きできない症状はその一端に過ぎないと思う。いったん言葉の音に合わせたローマ字の綴りを思い浮かべ、それをキーボードで叩くと、アルファベットがかな文字に変換されてモニターに映し出される。プログラムはそれをさらに漢字に変換し、意図した文字列であればそのままつづきの入力を続けるし、意図通りの文字列でなければ別の候補を表示させてそのなかから選択する、という操作を延々と続ける。ごく単純に図式化すると、日本語=>アルファベット=>かな=>日本語という三段階の変換プロセスをかな漢字変換プログラムが助け(あるいはい)、文字種の膨大な漢字を簡便に入力できるようになったものの、日本語(脳内)=>日本語(媒体)という書字行為がずたずたに分断解体されたということでもある。思考と行為の一体性が壊れて、書字の内部で生起する微細な相互作用の賜物が失われる[注4]。脳から手へ、手から筆記具へ、筆記具から紙へ、紙から眼へ、そして再び脳へと還るフィードバックが生む相互干渉作用が織りなす操作系を捨て、全く異なる操作系で置き換えるわけだから。それでもこの悪習を止められない。キーボード入力で得られるコード化文字テキストの便利さは疑いようもなく大きいのに[注5]、キーボード入力で失うものを明確に分別できない[注6]。失われるものは経験の直接性である、と括ってしまうと大雑把すぎるし、筆記用具がペンからタイプライターに変わったアルファベット文化圏の問題とは別の問題が隠れてしまう。タッチ・タイピングの習熟で、日本語のローマ字綴りを指先の運動に変換する過程はひとまず無意識の下へ押し込まれるが、かな漢字変換が躓くと、それが堰き止められた下水のように溢れ出て、思考は乱される。細くとも流れていた思考の脈絡が断たれ、まぎれ込む夾雑物で濁る。なかなか始末が悪い。文字を筆記するときの手触り、一画一画、一文字一文字を紙の上に出現させていく過程で手と眼と脳と筆記用具と紙の間で生じる相互干渉の渦が根こぎにされる。甲骨文字を刻んだ神官の呪術につながる書字の操作空間自体が筆記とは別の次元にワープし、生じる渦の質も全く異なってしまっているはずなのに、何がどう変わったのか微細に追跡できず、無意識が荒廃した感触が残るのがもどかしい。
 タブレット端末のデジタル・ペンが普及し始めている。このペンによる手書き文字(崩し字や草書を含め)のリアルタイム認識が100%にかぎりなく近い精度を示すようになれば、問題は解消できるかもしれない。少なくとも、脳を含む身体と筆記具と被筆記媒体が相互作用する書字の操作空間は回復できるだろう。そういう日がくることを夢想している。その程度には人工知能が「発達」するだろうと夢想しているのが、我ながら腑に落ちない。

 

注1 田川健三が「書物としての新訳聖書」(勁草書房)で言及したのを読むまで、「英字」という言葉を奇妙とも思わず使っていた。

注2 開発者自身による「日本語ワードプロセッサの誕生とその歴史」がこの間の消息をよく伝えている。

注3 誤変換に関する小話はネット上にあふれているし、「私のワープロ考」(安原顕編)という冊子にも、ワープロ普及初期から似たような怒りと嘆きが繰り返されてきたことが記録されている。

注4 石川九楊が「筆蝕」という概念でこの問題を追究している(「筆蝕の構造」ちくま新書、など)。ただ、「パソコン作文は、口述筆記と同じ」という断定は、日本語キーボード入力の実情を知らない議論であろうし、「いずれ、音声入力式パソコンによって、完全な話し言葉の時代が来る」という予想は四半世紀後に実現していない。

注5 ある評論家が、ワープロがなければこの著作はできなかった、というような述懐をしているのを読んだ覚えがある。テキストの切り貼りの利便性や推敲や校正におけるフィードバックループの短さは、手書き文字では叶わない。もちろん、それは一方的な優劣ではないけれど。

注6 文体が歪められるから、とワープロの使用を忌避している作家や詩人もいる。たしかに思考が歪むから、文体も歪むのは避けられまい。しかし、かくあるべき正書法なり流儀なりを持たない身には禁忌もまたない。