有島武郎論・序論  1

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 有島武郎は「前史」(註1)の長かった作家である。その理由を自ら弁明したような一節が、初期習作『半日』(一九〇八・一)にある。少々長いが引用しておきたい。 

「僕に打ち込む様な女を見ると、僕は其の女が低い女だと思うて取り合はないし、僕が打込みたいと思ふ女に遇ふと其の女の愛を受ける事が何うしても出来ないものと独りで定めて仕舞ふもんだから僕にはローマンスなんかはないんです……考へて見ると僕の行方は皆な左様だね、何か一つ取捕まへて固着しなければうそだとは始終思っとるんだが、其処がさう行かないんだ。第一取捕まへて仕舞へば其奴が安っぽいものになって仕舞ってそれに執着するなんて云ふ馬鹿は出来なくなるしさ……畢竟僕なんざア斯う云ふ風に安住の地を求めて、それに安住したなら一つの仕事をしとげる気で居て一生涯安住の地なんぞは見もしないで死んじまふ典型だと思ふんです」
と何時もの訥弁に似ずすら 〳〵 と言ひ切って、成程と心からうなづいて見せた井田を見やった。而して暫くしてから懺悔をする人の様に少し下を向いて、
「つまり僕は心のどん底が臆病なんですよ」
とつぶやく様に云ったが、ふッと挙げた其の面は見違へる様に快活になって居る。

 生涯の構想を択びとることを自らに猶予し、またそのことを強いられてもいるようないわば二重の宙吊り状態のなかで、その状態を意味づけようとという苛立ちが、自己自身に撥ね返って、《僕は心のどん底が臆病なんですよ》という自己卑下の言葉に急転するところが特徴的である。私が〈猶予を強いられている〉というのは、一人の異性を択ぶのも、一つの仕事を択ぶのも、それが生涯の課題となるためには《愛》や《執着》という契機と同時にそれらの内発的なモティーフと拮抗しうる現実的=外発的な契機が必須である――という意味である。生活からの促迫と云ってもよい。主人公(ならびに有島)は、このふたつのものが同致する場=《安住の地》を欲しているのだが、《其処がさう行かない》その理由を、自己の《臆病》に帰し、そう吐き捨てることで自己卑下によるカタルシスを味わっているように見える。この台詞を、一個の《臆病》など容赦なく粉砕してしまうような事態に立ち至ったことのない有島の育ちの良さ(ブルジョワ性)の賜物だとする視点は、ありうる。なるほど《安住の地》とはいかにも呑気な想定である。しかし、《固着しなければうそだ》という欲求の切実さもまた疑うことはできない。
 同じ作品の別の箇所で、主人公は人気のない雪道で転倒し、《貴様はすべる時屹度人の居ない所ですべるぞ》と考え、一人憮然となる。すべって転ぶという一種の事故に対してさえ、倫理的な自己裁断を下さねば納まらぬ心性の傾向が、対象世界との疎隔感・アンバランス感に対する焦燥の表現として、《臆病》というような卑小な自己像を与えるのである。彼が対象世界への志向性を固執する度合いだけ、そこから隔たっていると感じられる自己の像は卑小化される。
 有島のこの心性は抜きがたく彼の生涯に底通しており、その例はいたるところに見つけられるが、例えば後期の童話『溺れかけた兄妹』(一九二一・七)にもそれは露わである。
《私》(十三才)、妹(十一才)、友人(十四才)の三人で晩夏の海へ水遊びに出掛け、三人は共に高波にさらわれて沖へ流されてしまう。妹は溺れかけており必死に救助を求めている。《私》はその声に引かれつつも、自分が助けに行けば二人共溺れ死んでしまう、とそれを振り切るように岸へ向かい、かろうじて泳ぎ着くが、手の施しようもなくうろたえておろおろするばかりである。《私》より先に岸へ泳ぎ着いていた友人の引っぱってきた青年が妹を救けてくれる。妹は私が近づいたの見ると夢中で飛んで来ましたが、ふっと思ひかへしたように私をよけて砂山の方へ駆け出しました。その時私は妹が私を恨んでゐるのだなと気がついて、それは無理のないことだと思ふと、この上なく淋しい気持ちになりました。家に帰ってから《私》は祖母に手きびしい注意を受ける。

日頃はやさしいお婆様でしたが、その時の言葉には私は身も心もすくんでしまひました。少しの間でも自分一人が助かりたいと思った私は、心の中をそこら中から針でつかれるようでした。私は泣くにも泣かれないでかたくなったままこちんとお婆様の前に下を向いて座り続けてゐました。しんしんと暑い日が縁の向こうの砂の上に照りつけてゐました。

 有島のすぐ下の妹・愛子の証言によれば、『溺れかけた兄妹』は一八九三年頃に実際にあった事件をモデルにしているらしい(註2)。この証言が正しいとすれば、当時有島は一六才(数え年―以下同じ)であり、作中の《私》は三才年下に設定されていることになる。人間の記憶があまりあてにできないことは勘定に入れなければなるまいが、ここには無意識的な自己正当化の機制が働いていると考えることができる。云い変えればこの事件の記憶は、彼にとって自らの眼から蔽い匿しておきたい種類の記憶なのだ。この作品に流れている暗く償いようのない罪障感は、それにもかかわらず有島の自己認識が二十数年前のこの体験に吸いよせられ、それを反芻せざるをえない不可避性によっている。
 彼は《自分の命が助かりたい》というとっさの本能的な決断に踏み切ったのだが、自己の行為でありながら自己の行為であるがゆえにそれを是認することができない。《妹の処へ行けば二人とも一緒に沖へ流れて命がないのは知れ切ってゐる》という現実的な条件も、妹は助かったのだという結果も、彼の罪障感を鎮めることができない(《今でも私の胸は動悸がして、空恐ろしい気持ちになします》)。それは、あるべき義しき自己の像(当為としての自己の像)が、有島のなかに確固としてあり、そのものが、それからはるかに距たっている現実の自己を、現実的な条件などは全く無視して弾劾するからである。おそらく、いったんそういう倫理的な核が形成されると、自己のことごとの現実的な行為はこの当為から大なり小なりなんらかの批判を受けずにはすまず、常に蹉跌(当為からの背反)として感受されるようになるはずである。これは行為にとっては桎梏である。有島の行為が優柔不断な印象を与えるとすればそのためであり、有島の自己認識が《臆病》《卑怯》《小心》《無能》等々のネガティブな表徴に収斂するのは、この当為の強度とそこからの弾劾の苛酷さの表れである。