有島武郎論・序論 2

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 克明な有島日記から、その顕著な例をいくつか抽出してみる。  

⑴森本君を其家に訪ふ。[中略]何となく君を訪ふの心進まずして今日まで過ぎて初て君に会ひしなり。[中略]君の病中嘗て見舞だにきたらざりしを責めて声涙共に下る。余之れを聞きて実に云ふ所を知らず。一言の君に対す可き辞なし。君が一種幻影に襲はれ不眠の病を醸すに至りしは実に世の頼む可からざるを悲しむと共に君が刎頚と頼みし余さへも一回の訪問もなさざりしが為の深く悲哀に沈みしに依るなり。然らば余は実に君が病をして甚だ重からしめたる悪魔なり。余は実に君に対して無情なりき。余は君には真の友情を竭す可く誓い居たり。[中略]余此時真に只一死を以って君に謝するの外なしと思ひたるなり。
(一八九九・二・一〇――札幌)

 
⑵此夜増田より手紙を領す。彼は余の需に応じ、長く彼の胸中を支配しつつありし其失恋の状を語れるなり。而して余は、彼の満腔愛慕せし其人が愛子なりしを知り得て、殆ど絶倒せん計りの驚愕に打たれぬ。嗚呼此如き事ありしか。余は盲なりき、盲の極にてありき。[中略]嗚呼薄命の彼と彼女二人は、余が不注意の為めの故に生涯医す可からざるの悲痛を負ひて此世を送らんとすなり。[中略]余は彼の友にあらずして彼の悪魔となりぬ。彼女の兄にあらずして彼女の敵となりぬ。余がかばかり傾倒せる彼を傷け、かばかり愛親したる彼女を毀ちたる余の罪は何の償ひによりて満足せらるべきぞ。
(一九〇一・三・六――札幌) 

 
⑶家に帰りて手紙を読む。[中略]河野氏は鎌倉に、痛く衰へて、涼やかななりし眼はうるみをを持ち、黒き縁の眼鏡のみ目立ちて見ゆとなり。英一兄はリャウマチスを病む事四十日、乱髪痩顔半死の人の如しとなり。嗚呼、余何が故に独り然かく頑健なる。
(一九〇四・一・一四――アメリカ) 

 
⑷母上から来信。[中略]父上が再び例の病気になられたので、旅行して環境をお変えにならなければならないとの事。お気の毒な父上! 母上は、父上に頑強に抗うてくれるなと懇願なさらんばかりである。余は深い悲しみを覚える。自分は稍々荒々しく抗ったのではなかろうか。余の為に父を殺すなんて! 余は左様して祖母を殺した。
(一九〇八・五・一〇――札幌――原文英文) 

 
⑸再び安子を訪れた。彼女の卓子の上に余に宛てた手紙があった。そのなかで、彼女は、子供が学校から帰ってくるのを迎へてやらないと云う様な、親としての大切な義務を怠る余を責めてゐた。それは余の心の髄を刺した。行光が学校で真の最初の経験を父に話したいと、沢山の話を持って家に帰ってきた時其処にゐないとは、余は何て心ないものであろう。[中略]自分の中に下劣な悪魔の居ることに気付き、さう気付いて見ると自ら一個の男子として立って行くに足らない様な気がする程苦しめられた。安子の許を去ってから、余は心中恐ろしく苦しみ悩まされ、ぢっと坐ってゐることが殆ど出来なかった。余はあたかも最後の審判に遭ってゐる様に感じた。
(一九一六・四・六――東京――原文英文)

 引用した記事の背景に若干の補足説明を加えておこう。
 ⑴は、札幌農学校在学当時のもので、《森本君》=森本厚吉は強引なオルガナイザーとして有島にキリスト教入信を勧めていたが、有島は徹頭徹尾引き廻されながらまだ入信に至っていない。また、森本本人も深刻な信仰上の悩みの中にあったらしく、二人の関係は外部からはうかがい知れぬところのある奇怪な性質のもので、この記事の一ヶ月ほど前の有島日記(一八九八・一二・三〇、一八九九・一・五)には、《日記に載するも厭ふ》ような《過失》があったことが記録されている。これは男色であったとするのが定説となっており、おそらくそれに類する性的な《過失》であると見て大過ないように思われる。引用した記事は、しばらくぶりに森本を訪うた日のものであり、更にこれより数日後、《一死以て君に謝す》という有島の決意の表明から、二人は定山渓で心中を企て、未遂に終わる。有島はこの心中未遂事件を機に家族に入信を告げ、両親の激しい反対にあうも、キリスト教入信の決意を翻してはいない。
 ⑵は、学習院中等科時代の友人・増田英一(⑶に《英一兄》とあるのも同一人物)から、すでに他家に嫁いでいた(一八九七年)有島のすぐ下の妹・愛子に、増田が好意を寄せていたという告白の手紙を受け取った日の記事である。妹の方でも増田に好意をもっていた兆候があったことに有島は打ち明けられてみれば思い当ったらしい。『半日』に《妹が道ならぬ恋の為めに死なんとした》とあるのは、この増田との関係にまつわるものと思われる。
 ⑶は、ハーバード大学選科に在籍中のもので、渡米後一年四ヶ月を経ている。《河野氏》は、農学校時代の恩師・新渡戸稲造の姉・河野象子であり、帰国後結婚問題の持ち上がる河野信子はその長女である。
 ⑷に《抗ふ》とあるのは、結婚問題に関して父親の勧める縁談に有島が乗り気でなかったことを指している。母校の講師に赴任したばかりの頃で、帰朝(一九〇七年)直後の父親との関係は、河野信子との結婚を申し出たものの許されず不調に終わったことや、すでに成墾に近づいていた有島農場の管理問題についての対立などがあって、円滑ではなかった。《例の病気》は、瀬沼茂樹の伝記によれば、《余が父上の御心や主義に対して謀反を企んだ》(日記・同五・八)と疑った父親が、「心気興奮して寝こ」んだことを指している(註3)。《祖母》(母方の山内静子)は熱心な真宗の門徒で、有島は少年時代を通じて薫陶を受けたが、⑴の四ヶ月後(一八九九年六月)《屹度私を仏の恩寵の中に摂取すると云って死んだ》(『リビングストン伝第四版の序』)。享年七〇才であった。有島の記憶の中では、祖母の死は彼のキリスト教入信と深く結びつけられており、《悲しみの余り死病に罹って、来世で僕を仏弟子にする外はないと云ひながら亡くなった》という一節が、『迷路』(序篇「首途」一九一八)にも見える。
 ⑸は、安子夫人の死の四ヶ月前にあたり、夫人は家族と別居して鎌倉で結核の療養中であった。夫人は自分の病気が子供に感染することを怖れてすでに一年以上も子供と会うことを断っており、これは死去まで貫かれた。当日が長男・行光の幼稚園初登園日であった。有島三九才である。
 ここで引いた事例のうち、有島が日記で示しているほどの烈しい自責を覚えるのが当然であるようなケース、云い換えれば、客観的な責任が有島自身にあるようなケースは一つも認められないと思う。有島が他者に対してとっている自己の態度と、他者の不幸(と有島がみなしている状態)を因果関係としてむすびつけているのは短絡であるとしか考えられないからである。ここに、これらの事例が対他的な関係から生ずる葛藤である(その点では自閉的な印象を与えない)にもかかわらず、結局独り角力としか思われない理由がある。そこから、本多秋五の「とにかく、自分をいじめることが好きな人だった」(註4)という評言が生まれるし、それは当たっている。けれどこの問題は嗜好の問題として済ます前に、もう少し詮索してみる必要がある。
 事例⑴で、有島は《見舞だに来らざりし》という森本の批難を全く絶対的なものとして受け止め、そのことによって森本に対する反駁の方途を自ら塞いでしまっている。有島が《何となく君を訪ふの心進ま》なかった本当の理由は、私の考えでは、例の《過失》を繰り返したくなかったからであるが、《君には真の友情を竭す可く誓》った誓約が何ものよりも優先さるべきいわば至上の規範として強制力をふるっているために、森本の問責を相対化する視点は完全に排除され、規範から背反した自己は《一死以て君に謝するの外な》い罪責感に苛まれるのである。独り角力と云う所以である。有島が想定している《真の友情》は、あたかも幾何学的な点の概念のようなもので、現実的には存在不可能であり、だからこの断絶を埋めるためには現実的人間であることを廃止するほかないという倒錯が生じるのである。
 その他の事例でも、自責の基本的な構造は事例⑴の場合と同一であろう。事例⑵では、キリスト教的(近代西欧的)な恋愛=結婚こそが本来的な婚姻の形態であるという理念と、《友》であり《兄》たる者は、友人や弟妹の《希望を満足》させてやるべきであるという理念が二つながらに固執されているために、すなわち彼らの恋愛の成就に尽力すべきであったと確信されているために、彼らに力を貸すどころか、二人の間に恋愛感情があったことすら察知できなかった《盲》で《不注意》な現実の自己は、《悪魔》であり《敵》であるという罪責感にさらされずにはいないのである。身をかわす方法はいくらでもあったはずだが、有島の倫理意識の内部では、他の方法は抹殺され、自責だけが君臨するのである。
 事例⑶は、まったく不可解な印象を与える。それは、友人の病気の報知が自己の健康についての意識をよびさますまではごく一般的な過程として誰でもが体験するところであるとしても、自己が健康であるという意識が、突然そのことに対する呪詛の意識に転化する過程を他者からはたどることができないからである。異国での孤独な一年余の生活という要因を勘定に入れても、この不可解さは解消できない。ただ、事例⑴・⑵と同様な自責の過程が度外れに昂進し、マゾヒスティックに自己の健康さえ対象にしている、と想像しうるだけである。私たちには彼のひたすらに滅入りこむばかりな心的世界の息苦しさだけが伝わってくる。
 事例⑷の時期は、有島の生涯の中で様々の重要な問題が錯綜している時期だが、ここではただ次の点を指摘しておくにとどめる。すなわち、《多年の隠忍の破れる日が何時かは来るだろう》(日記・同四・一五)という父-家からの離反の志向と、同じものへの断ちがたい優情(註5)という二価的な精神の葛藤があり、自分の父-家からの離反の兆候が父親を病気に至らしめたという事実から来る罪障感は、離反の正当性を固執することによって打ち消されるのではなく、九年前の祖母の死(それは有島の主観の内部では、反対を押し切ってキリスト教に入信したことと因果関係として鞏固に繋がっている)の記憶が自動的に呼び出されることによって相乗的に増幅され、募らされている、ということである。 
 事例⑸についても、以上の諸例と同様の機制が働いていると見てよかろう。《最後の審判》云々は、不惑に近い《男子》の言としては大袈裟に見えるかも知れないが、しかしこれはポーズではないのだ。 
 これまで見てきた有島の、自己卑小視・罪責感・自己呵責を特徴とする倫理意識の一つの型は、どういう発生上の根源を持っているだろうか。種々の要因を想定することができるだろうが、私は最も本質的なものとして、幼少年期の両親(およびその代理者)との関係を考えたいと思う。倫理意識というものを、人間が他者との関係の世界でとる心的な体制である――とひとまず定義しておけば、最初の他者は両親に他ならず、この者との関係を通してその体制の基本的な構造は形成される、そして、この過程はちょうど母国語の言語規範の習得の過程がそうであるように、反省的な思考によって対象化することの困難な領域でありながら、形成(習得)された構造は精神の規範として生活過程に持続的に内在すると考えられるからである。

 余年少父に侍して家にあるの時常に父を恐懼して、父をして此児為すなしと迄のたまはせたる事ありき。其後も常々これを矯めんとするの心ありしも遂によくなす能はず。
(日記 一八九七・六・一二)

 
 父は長男たる私に対しては、殊に峻酷な教育をした。小さい時から父の前で膝を崩す事は許されなかった。朝は冬でも日の明け明けに起こされて、庭に出て立木打ちをやらされたり、馬に乗せられたりした。母からは学校から帰ると論語とか孝経とかを読ませられたのである。一意意味も解らず、素読するのであるが、よく母から鋭く叱られてめそめそ泣いた事を記憶して居る。(註6)
(『私の父と母』一九一八・二)

 
 其の頃(一八八九年頃―引用者註)私の両親はまだ若かった上に、二人共負けず劣らず我の強い人達だったから、二人の家庭は始終油の切れた歯車のやうに快くない軋轢方をしてゐた。私は未だ幼稚だったけれど、其の頃の家庭の空気を甚く怖れてゐたのを思ひ出す。
(『御嶽教の中教正となった祖母』一九一九・二)

 
 ジムの絵具がほしくってほしくってたまらなくなりましたけれども、僕はなんだか臆病になって、パパににもママにも買って下さいと願ふ気になれないので、毎日 〳〵 その絵具のことを心の中で思ひつづけるばかりで日が経ちました。
(『一房の葡萄』一九二一・八)

 幼少年期の両親に触れた文章は少なく、ほとんどこれに尽きている。両親にしてみれば、幼い児にとってそれがいかに不可解なものであろうと、正座や立木打ちや論語の素読やは、二代目ブルジョワジイとしての礼節や克己や勤勉やの徳目を実践的に体得させることを願ってのことだったろうし、当時の旧士族の嫡男教育としてはありふれたものでもあったろうが、ここに一貫している調子は暗く、北村透谷が石坂ミナ宛の有名な告白書簡(一八八七年八月一八日付)で吐露した母や祖父母に対する近親憎悪と(それよりはずっと隠微ではあるが)類似した印象を与える。もちろん、透谷の家庭は没落士族のそれであり、有島の父親は藩閥政府の高級官僚であったから、両者の物質的環境にははなはだしい懸隔があろうが、両親(またはその代理者)の理不尽な厳格さに対する原初的な感受として一種の類似が見いだされる。いずれにしろ、有島にとって、両親(特に父親)が、強大な抑圧者であり、ほとんど絶対的な抗すべからざる権威として映っていたことは疑いない。私たちは、有島の生涯にわたる過剰な自己呵責の発生的基盤として、彼の幼少年期における両親との関係を考えてよいであろう。フロイドの概念を借りれば、この時期に有島の「超自我」(「自我理想」または「上位自我」)はその基本的な性格を決定された、ということになる。フロイドの「超自我」の概念は、私がこれまで「当為としての自己の象」と称んできたものに相当する。

 父がエディプス願望の妨害者としてみとめられるので、おさない自我は、これと同じ妨害者を、自分のうちにもうけることによって(父と自己との同一視によって―註)、この抑圧行為に対して自分を強力にした。子どもはこれを行うための力をある程度まで父から借りたのだが、この借りはとくに重大な結果をもたらすものである。超自我は父の性格を保持するであろう。そして、エディプス・コンプレックスがつよければつよいほど、またその抑圧が加速的(権威・宗教教育・授業・講義の影響をうけて)におこなわれればおこなわれるほど、のちになって超自我は良心として、おそらく無意識的な罪悪感として自我を厳格に支配するであろう。(中略)父への憧憬にたいする代償形成としての自我理想は、あらゆる宗教がそこから生成した萌芽をふくんでいる。自我と自我理想を比較して、おのれの不肖を批判することは、憧憬を抱く信者がよりどころとする謙譲な宗教感情をうむ。ひきつづき成長の過程では、教師の権威が父の役割を強力におしすすめた。彼らの命令や禁止は、自我理想につよくのこり、いまも良心として道徳的監視をおこなう。良心の要請と自我の行為のあいだの緊張は罪悪感として感じられる。
(「自我とエス』傍点原文)(註7)

 フロイドの「超自我」の概念の輪郭は引用箇所によく示されている。そして、彼の考察は、有島の心性の構造を的確に云い当てているように思われる。フロイドの理論は、人間の心的な世界を遺伝とか体質(気質)とかの先験的な実体概念に還元せずに、その一般的な機制を過程的に把握しようとしてしている点で魅力的である。
 有島論の文脈に即せば、繰り返しになるが、有島が幼少年時代を通じて受けた《峻酷な教育》をその中核とする両親との関係は、彼の過剰な自己呵責の重大な契機となり、それは意識的には遡行しがたい幼年期からの体験であるために無意識的な領域に潜在したまま彼の倫理的な思考様式を支配した、といえよう。
 ところで、両親に関する諸断片が共通して、強大な父(母)親とその前でおびえたように畏まっている児という構図を呈しているのは、偶然ではない。実際には、彼にとっての両親が常に一方的な畏怖の対象であったはずはなく、ある時は彼を甘やかし、あるときは優しい庇護者であり、またある時は激しい反発の対象でもあったであろう。けれども彼の回想がそれらのディテールを捨象して一定の方向に収斂している現実的な理由は、当時の有島の父親が、「薩摩藩の陪臣の下級武士から(中略)明治政府の高級大蔵官僚に脱皮し」(瀬沼茂樹)(註8)ていく、典型的な上昇過程を生きていたことにあったと思われる。おそらく、有能な壮年官僚としての自負は、彼の家庭の雰囲気の主要な要素であり、ここに、有島の回想が近親憎悪を秘めながらもどこかくぐもり声になっている理由がある。この時期に刻印された父親への畏怖心は、父親についての原像の核となって有島の生涯を呪縛したと想定しうるが、これについては後に言及する予定である。
 すでに触れたとおり、定山渓心中未遂事件を直接の契機として有島はキリスト教入信を決意し、以後一九一〇年五月(『白樺』創刊の直後にあたる)の札幌独立教会脱退まで、特にその前半期は熱心なキリスト教徒であった。青年時代のほぼ全期間をおおうこのキリスト教体験の意味は、それだけで優に有島論のひとつの重要なテーマでありうるし、多くの論考も提出されているが、基本的には本多秋五が与えた「人間の責任を糺しているもの、人間の罪を照らしだす光は、抛棄されたはずのキリスト教の思考法以外の何ものでもない」(傍点原文)(註9)という規定に集約されるであろう。私もこの規定を変更する必要を感じないが、これまでの考察から以下の点を補足しておきたい。有島の「超自我」はキリスト教受容の土壌であったとともに、それまでは半ば無意識的でありアモルフなものであったそれは、キリスト教という一神教の信仰によって理論的に整序され武装されたのであり、一層過酷な支配力を揮った。たとえば、所謂山上の垂訓のうち、マタイ福音書五章二七-三一が伝える、欲情をもって女を視るものはすでにこころの中で姦淫を犯しているのだから、罪を犯すその眼を抉りとってしまえ、五体満足で地獄に堕ちるよりはましである――というような、自然としての人間に徹底的に対立する、およそ考えうる限り反自然的な戒律を《権威》として受け入れ、《聖書を隅から隅まですがりついて凡ての誘惑に対する唯一の武器とも鞭撻とも頼んだ》(『聖書の権威』一九一七)人間の内面が、どれほどすさまじい倫理的な脅迫の暴威にさらされるかは、彼の日記が如実に示すところであり、そのうちのいくつかについてはすでに触れた。事例⑶にあらわれている、ほとんど病的と呼びたいほどの自虐の背後には、貧しき者・飢えたる者・病める者にこそ神から愛される資格があり、しかも右の頬を打たれたら左の頬を差し出せという福音書のマゾヒスティックな思想が倫理的脅迫として作用していると考えざるをえない。現実的な条件から云えば、有島はそれらの資格を欠いており、《余何が故に独り然かく頑健なる》式の思考様式は、晩年の農場解放・財産放棄にまで尾をひいている。