有島武郎論・序論 4

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 前章まで、おもに有島武郎の「作家前史」(註13)における心性の特徴を概観してきた。この「前史」に終止符を打ったのが夫人と父親の立て続けの死という《事変》である。それについて有島はこう書いている。   

 妻は大正五年の夏に死んでしまった。その冬には父が死んだ。この二つの事変は私には大転機だった。何時までもいい加減に自分をごまかしてゐられないと思った。私は思ひ切って自分を主にする生活に這入るやうになった。もう義理もへちまもない。私は私自身を一番大切にしよう、一番可愛がらう。私は私を一番優れた立派なものに仕立て上げる事に全力を尽くさう、さうしっかり腹を決めてしまった。その後の私の生活は、失敗にせよ成功にせよ、この一念で貫かれてゐる。
(『リビングストン伝第四版の序』一九一九)

 ここでは《二つの事変》がひとまとまりのものとして語られている。そして事実、この最も近しい二人の逝去はわずか四ヶ月余りのうちにほとんど踵を接するかたちで有島を襲ったのであった。有島の常用語を借りれば、《まくし上がった》(『宣言』『或る女』など)のであったが、その受け止め方を仔細に見れば、そこには同質なものと同時に明らかに異質な要素が存在している。彼のいう《大転機》の意味、《事変》から《義理もへちまもない》という決意にいたるまでの過程を、有島と夫人、父親とのそれぞれの関係に即して探ってみたい。
 夫人は一九一四年九月に発病し、翌々年八月二日に没す。有島との間に三人の遺児があり、一九一一年、一二年、一三年の誕生である。所謂年子であり、いずれも男児であった。有島がその遺児たちの片親として、夫人の死について書いているのが『小さき者へ』(一九一八・一)である。その一節。

 
 お前たちの母上の死によって、私は自分の生きて行くべき大道にさまよひ出た。私は自分を愛護してその道を踏み迷わずに通って行けばいいのを知るやうになった。私は嘗て一つの創作の中に、妻を犠牲にする決心をした一人の男の事を書いた。事実に於いてお前たちの母上は私の為に犠牲になってくれた。私のやうに持ち合はした力の使いやうを知らなかった人間はいない。私の周囲のものは私を一個の小心な、魯鈍な、仕事の出来ない、憐れむべき男と見る外を知らなかった。私の小心と魯鈍と無能力とを徹底さして見ようとしてくれるものはなかった。それをお前たちの母上は成就してくれた。

 《一つの創作》とは『幻想』(一九一四・八)であり(註14)、そこに《彼は結婚したばかりの妻のことを思った。「お前もいつか犠牲にしてやるぞ」さう彼は悲しくつぶやいた》という一節が見える。散策の途次、主人公が自らの《大望》(具体的に何であるかは明示されていないが、《成就のためには牢獄に投げ入れられる》覚悟が必要なものである、とされている)のためには新婚の妻を犠牲にすることをも辞さない、という決意を独語する場面である。もちろんこの主人公は有島の分身である。重要なのは、夫人の死が《犠牲》として把えられ、なおかつその《犠牲》を強いたのはのは自らの《大望》であるという関係づけがおこなわれていることである。『幻想』の発表は、夫人発病の一ヶ月前にあたっている。前章までに有島の心性の傾向をいささか検証してきた私たちには、この関係づけは目新しいものではない。有島にとって、夫人の結核発病―死という事態は単なる生理的な病―死という医学的な因果律のレベルを超えて、自らの決意が必然的にまねき寄せた結果として意味づけられているのであり、このことによって有島は烈しい罪責感にさらされたはずである。しかも、そこに三児の相継ぐ出産と育児による夫人の過労がもう一つの要因として付加されているのであってみれば、その罪責感の深刻さは、友人・知人の失恋や病気の場合の比ではなかったことは、疑うべきもない。このものの反映は、《母上の写真の前に駆けて行って「ママちゃん御機嫌よう」と快活に叫ぶ瞬間ほど、私の心の底までぐさりと刮り通す瞬間はない。私はその時ぎょっとして無劫の世界を眼前に見る》(『小さき者へ』)という箇所や、《お前たちの人生はそこですでに暗い》《不幸な者たちよ》(同)という我が児に対する呼びかけの不吉なリフレインのうちに歴然としている。先に引用した事例(5)の記事の背後にも、この罪責感の存在を想定しなければ、その身も世もあらぬ狼狽ぶりは理解しがたいであろう。
 夫人の存命中に《妻のある為めに後に引きずって行かれねばならぬ重みの幾つかを、何故好んで腰につけたのか》(同)と、その存在を煩わしく思い、《妻の死を仮想する事が僕の一種の自由と解放の快感を与へた》(吹田順助宛書簡、一九一六・一〇・三)ことがあったのは事実であり、それは夫人が一面においては「醜悪なる俗界の通弁」(透谷、註15)として感じられたことに対する反応であったろう。しかし、そのことから直ちに夫人の死が有島に《自由と解放》を与えたと見做すことは不可能であり、そのことはかえって彼の罪責感を増幅させたと見なければなるまい。
 夫人の発病から死去までにはほぼ二年間が経過しているが、死の前後の時期には詳細な日記が残されている。その記述によれば、有島は夫人の治療に可能な限りの手段を講じ、末期には親族が加持祈祷を試みることを拒んではいない。当時の医療技術の水準では、結核は自然治癒力をあてにする以外にはない死病であったから、この二年間は常に死に直面する状態が持続し、死に向けての心的準備を強いられている時間であった。それでも(と云うべきか?)、日記で見る限り、有島が夫人の死という事実の打撃から一応の心的な平衡の回復を示すまでにはほぼ三ヶ月を要している。この三ヶ月間のうち最も主要な仕事は、夫人の病床手記の整理であり、整理をおえた遺稿は『松虫』(註16)と題されて印刷に付され、近親・知友に配布された(九月末)。それは夫人の遺言状でもあって、次のような有島に対する呼びかけを含んでいる。

 
あなたは御自身の真実の生活に飛び入らずに遠慮してゐらっしゃるのです。あまり人の為ばかりを思い過ぎなさる。親孝行の美しいあなたの御性質がそれを躊躇させてゐるのです。私はあなたのその御心を思ふ毎に泣きます。それから私の病気、是れが又どんなにあなたのお通り路をお邪魔しお煩はせしてゐるかもよく知ってゐます。(一九一六・三・二七)

 
わたしはあなたの御成功を見ないで死ぬのが残念で御座居ますけれども、必ず御成功遊ばすと信じて居ります。凡ての事に打勝って御成功遊ばして下さい。あなたに対しての唯一の御願ひで御座います。(一九一六・五・八)

 五月八日の記事は、夫人の死に直接取材した戯曲『死と其の前後』(一九一七・五)にそのまま採用され、また、どちらの記事も『小さき者へ』とよく響き交わしている。こういう章句を含む遺稿を私家版にせよ公開するという一種破天荒な行為は、夫人の死という厳然たる事実を承認するために必要な手続きであった。それは同時に、故人の遺志を借りた自己激励であり、かつまた間接的な意志表示でもあったであろう。けれど《義理もへちまもない》という決意はこの仕事によって直ちに確定された訳ではなかった。例えば、九月一〇日から一三日までの日記は、そのほとんど全部が『軽井沢』なる案内書の長々しい引用で埋めつくされており、《何しろ容易ならぬショックに堪へる準備をしなければならないと思って、僕は気を落着けようとした。片端から考へを纏めて行くつもりで、ふと気が附くと、僕はぽかんとして、前に落ちて居る蜜柑の皮を見つめて居た。幾度やり返しても同じことを繰り返すばかりだ》(『宣言』一九一五)(註17)というような呆然自失の状態にあったことをうかがわせる。あるいは、弟・生馬の絵のモデルとして何時間も坐りとおしたという記事が頻繁に現れ、なにものかにすがりつくつくように、ホイットマンの『草の葉』に眼を曝したことが書きとめられ、それらの記事の間隙に、夫人との関係にまつわる自責の言葉や、《安子! 私に力を与へてくれ》(八・二七)とか、《安子よ、私を助けてくれ、どうか助けてくれ!》(九・一四)とかの悲鳴でもあり祈りでもあるような言葉が噴出している。いずれにしろ、有島が夫人の死という一事をまともに正面から受け止めたことは疑いなく、この一事に執着することでその衝撃を克服しようとしていると云ってよい。それは、《日が経つにつれて、お前は私自身の部分になって行く。何処まで私がお前であり、又お前が私であるのか、私には解らない》(九・一)というような、『惜しみなく愛は奪ふ』の思想の体験的な核心(《The little bird is myself, and I live a bird.》)が析出されていく過程でもあった。この認識が生きている人間を対象として成立したものではなかったことは、有島にとってはなんとも口惜しく致命的なことではあったろう。しかしともかくも有島は、夫人の死に固執し、その喪失感の補償として成就した夫人との一体感によって、罪責意識がもたらす危機を切り抜けたのである。彼は夫人の遺言に応えるかのように《確乎たる、満足した生活。それを、私の目的とせねばならぬものである。この目的を以ってひた向きに前進せよ。然らばその結果はどうであらうと恐る所ではない》(一〇・二五)とひとまずの結語を書きつけ、翌年、『死と其の前後』(一九一七・五)、『平凡人の手紙』(同・七)、『実験室』(同・九)、『小さき者へ』(一九一八・一)と、夫人の死によって受けた衝撃を対象化しようとする作品を矢継ぎ早に発表する。
 この一連の亡妻物とでもいうべき諸作品を貫通するモティーフは、贖罪意識であり、作品群中最も優れているのは『実験室』である。
 妻の死の病因に関して同僚との間に所見の相違があり、主人公の医師は、自らの手で妻の遺体を解剖することによって自説の正しさを証明し、それが証明されたときにある人間的な感情の覚醒を体験して云いようもない絶望感にうちのめされる――という『実験室』の構成は、夫人の死による烈しい自責の衝迫がもたらす有島の倫理意識の運動、一言で言えば贖罪意識の軌跡と深く対応している。私見では、妻の遺体に加えられる解剖のメスとは、夫人との関係(の死による切断)に面接するときただちにはね返ってくる「彼女は私の犠牲となって死んだのだ」という認識から生ずる自責の暗喩と読むことができるのであり、《解剖》の場面のリアリティをよく支えているのは、有島の自責のすさまじさである。
 主人公の所見(粟状性結核)が証明されたあともなお《解剖》は続行され、妻の頭部にまでおよぶ。作者はそれを《研究心以外の不純な或る感情――Sadisticと云ふ言葉ででも現はさなければならないやうな――が湧いた》ためだと説明しているが、これは自責のモティーフが解体しはじめているために生じた混乱である。主人公が最初に自ら《一点の非理もない》と確認した《解剖台の上にあるものは、親であらうが妻であらうが、一個の実験物でしかないのだ。自分は総ての機会に於いて学術に忠実であらねばならぬ》という視点が貫かれるなら、《解剖》が《実験物》の全体にわたることは必至であり、《不純》ではない。この視点に対応するのは、有島にとっては疑いようもなく確実な、夫人の《犠牲》死という意味づけであり、この意味づけから生じる自責は、夫人との関係のあらゆる局面・あらゆる細部にわたって彼が強いた《犠牲》の徴候をつぶさに嗅ぎ出さずにはおかぬであろう。ここで有島が『お末の死』を書いていることを想起すれば、これは慄然たる事態であり、自責の貫徹は自死以外におわることはありえない、まさに《Sadistic》な性質のものである。私が混乱というのはこのことである。ではこの混乱をもたらした自責のモティーフの解体は何に由来しているか。自己保存本能のようなものを想定せざるをえないかも知れないが、有島の心因に即せば、それは夫人の遺稿である。私は、夫人が『松虫』を遺したことによって有島を救ったと信ずる。ここに夫人の叡智を見るべきかも知れない。夫人が有島の心性の本質を的確に把んでいたことは、すでに引用した『松虫』の断片からも明らかであるから。「凡ての事に打勝って御成功遊ばして下さい」という夫人の遺言は、有島にはほとんど天啓のように受け取られたであろう。夫人に対する贖罪の方途が自裁以外にも存在すること、しかも、自らの《大望》(『幻想』)の実現がそれであり、それが夫人の遺志であるのだという啓示は、有島の自責の《Sadistic》な猛毒に対して強力な解毒作用をはたした、と考えられる。

 
 メスを右の耳の下の髪の分け目の所につき刺した。顔の上には前頭部の髪の毛がもつれあって物凄く被ひかぶさってゐる。
突然彼のメスを持った右手が、しっとり冷たい手のやうなもので握りしめられて自由を失った。緊張し切った彼の神経は不思議な幻覚に働かれて、妻のこはばった手が力強く彼の無謀を遮るやうにも思った。と、冷水を脳の心に注ぎこまれたやうに彼の全身はぞっとした。
「気でも狂ったのか。乱暴にも程がある」
 かすかな、然し恐ろしい程力のこもった声が同時に彼の耳を打った。見かへる鼻先に真蒼になって痙攣的に震ふ兄の顔があった。瞬きもせずに大きく彼を見詰めてる兄の眼は、全く空虚な感じを彼に与へた。彼にはそれが虚な二つの孔のやうに見えた。その孔を通じて脳髄までも見やうと思へば見通せそうだった。
 ただ瞬間の奇怪な妄想ではある。然しこの時彼の目に映った兄は兄のやうには見えなかった。妻の死霊に乗り移られた不思議な野獣が、牙をむいて逼りかかって来たやうに思はれた。彼の大事な仕事を土台からひっくり返さうとする大それた邪魔者のやうに思はれた。緊張し切ってやや平静を失ひかけた彼の神経は疾風に見舞はれた冬木の梢のやうにざわざわと怒り立った。彼は兄弟の見境をも失はうとした。而して次ぎに来るべき凶暴な動作を頭にたくらみながら、兄の握りしめてゐる右手を力まかせに払いのけようとした。その瞬間に彼の手はひとりでに自由になった。兄は眼を開いたまま棒倒しにセメントの床の上にどうと倒れたのである。

 私は、《解剖》に立ち会う主人公の兄を、『松虫』の暗喩と見るのである。
 初出(『中央公論』一九一七・九)では傍線部は、《然し彼れは兄が彼れの妻と道ならぬ関係があったのを直覚したと思った》となっているが、このことは私の解釈を拒む条件とはなりえない。もちろん、余計な要素(姦通)を除いた定稿の方が格段に優れている。初稿も兄と妻との固い結びつきを示唆しているとは云え、姦通の要素は一篇の構成に対して全くの異物に転化する可能性を孕んでしまうからである。
 兄は失神して主人公の右手は自由になるものの、すでに決定的な危機は阻止されたというべきであり、主人公は自らの手による《解剖》を中断し、それを助手にゆだねて戸外を眺めながら《生活と学術とどっちが尊い。我れを失ってどこに学術があるか》という疑念につきまとわれはじめる。ここを、「遺志の実現(贖罪)と自責の貫徹とどっちが尊い。自らの生命を断ってどこに贖罪があるか」と読みかえれば、ここで生じている葛藤は、解毒剤と毒の同時的な効果とでも比喩できる事態であることがはっきりする。主人公はこの疑念に決着をつけることができないままに、助手が腑分けした臓物の検証に立ちかえる。有島の自責は根深いと云わなければならない。しかし、ダメ押しとも云うべき記憶がこの過程で甦る。

 
 「胃」
 彼は破竹の勢いでべちゃ 〳〵 に潰れた皮袋のやうなものを取上げて台の上に置いた。[中略]
 胃の解剖からは何の結果も得べき筈はない、さう彼は思ひながらも、型の通り鋏を取って一方を切り開いて見た。その内部からはすでに胃壁に凝着した血液が多量に黒々として現はれ出た。
 「喀血を嚥下したんだな」
 思はざる所に不意におもしろい事実を見出したやうに、一人の医員は、死体が同僚の妻である事も忘れて、かう叫んだ。
 彼はこの有様を見ると思はず、手の甲で眼をかくしながら二三歩たじろいで後ろを向いてしまった。この有様を見た瞬間に、妻の断末魔の光景が、彼の考へてゐた学術の権威、学徒の威厳、男の沈着、その外総ての障碍物を爆弾のやうにたたき破って、いきなり彼の胸にまざ 〳〵 と思ひ浮べられたからだ。

 前日、妻は大量の喀血をくり返し、これでは《血がなくなるだけでも死にます》と錯乱状態に陥って、コップに吐血を受けて飲み干した。その臨終の光景を主人公は思い出すのである。
 この箇所に対応する有島の体験的根拠を求めれば、私たちは、「真実の生活」(『松虫』)への促迫と自責の間で持続する葛藤の過程で獲得された、あの夫人との一体感の体験に想到する。有島日記で見る限り、それは『実験室』の医師の体験ほど劇的なものではなく、ゆるやかでまた不知不識のうちに成就された認識であったように思われる。けれど《何処まで私がお前であり、又お前が私であるか、私には解らない》という夫人との一体感は、有島にとってはまぎれもない現実体験であり、貴重な体験であった。
 主人公は《解剖》の意欲を全く喪失して自分の研究室にもどり、《自己欺瞞の世界が彼の眼の前でがらがらと壊れ》る。もちろんこれは、自責のモティーフが解体し、「真実の生活」への促迫が勝ちを制したことを意味している。しかし、多くの評家が指摘するとおり、作品自体はこのあたりから急速に生彩を失う。有島の主眼があの一体感の意味を描くことにあったとするなら、私もこの作品の後半は失敗していると云わざるをえない。《自己欺瞞の世界》が崩壊したあとに現れるのが、《これまでの生活の空虚さ》だけであり、それへの感傷におわっているからである。私の考えでは、この失敗は二つの要因に帰することができる。一つは、夫人との一体感がほとんど無意識のうちに成就したため、『松虫』から受けた「真実の生活」への促しが自責の衝迫を解体する過程を対象的に分析することが妨げられ、解体したのが《自己欺瞞の世界》である所以を追求することができなかったためである。もう一つは、その一体感がついに死者との一体感であることによって必然的に胚胎せざるをえない虚無感である。この点では、結末部で主人公が直面した《空虚さ》は有島の意図を超えて正確であったと云わなければならない。
 『実験室』一篇を有島の贖罪意識の記録として見る私の読解は、作品構成と作家の心的体験の対応関係に即きすぎて図式化の弊に陥っているかも知れないが、少なくとも、「『実験室』は、そのモチーフの半面において〈生の苦痛〉の主体性が乏しかったために、作中人物に多分に実感から遊離した作為をもって感情移入せざるを得なかったのである」(山田昭夫)(註18)というような呑気な批判からは作品の生命を救出しているはずである。『実験室』がよく光彩を放っている《解剖》の場面は、有島の自責の痛切さの見事な客観化であり、《生の苦痛》(石坂養平宛書簡、一九一九・一〇・一九)以外のなにものでもない。