有島武郎論・序論 5

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 夫人の死の三ヶ月後、父親が胃癌であることが判明する。その日の日記に注目すべき記述がある。

 
 本当を云ふと、自分の仕事を心ゆくまでする為に(良心にかけて、他の目的あってではないが)、ひそかに父上の死を希望してゐた。併し此の由々しい知らせを聞くと、父上の生命に対する私の態度は、すっかり変って了った。私は唯父上の恢復を願ひ望むばかりだ。神よ! 其は余り残酷すぎます。残酷すぎます。
(一九一六・一一・八 --原文は英文)

 大胆な告白と云うべきであろうか。父親の死が、日記にさえ記すことのはばかられる内心の秘かなしかし強い願望であったことは、《良心にかけて》云々の釈明が挿入されているところにかえって明らかに露呈している。この記事を書きえたのは、彼の禁圧されていた願望が実現されそうになったとき、彼の心がその願望を拒絶する方向に作動した――という主観的な事実が、倫理的な罪責感に対する盾となりうると感じられたからである。そうでなかったならば、この願望は禁圧されつづけるほかなかったであろう。けれども、自分が父親の死を希ってきたというもう一方の事実がそのことで解消されうるものではないこともまたあきらかである。父親の死に対する態度が両価的であることについてはすでに触れた。《父上の恢復を願ひ望む》のがその一面の発動であり、それは自然な肉親愛の発露としてよく納得できるものである。しかし、ここにはもう一つの要因が加わっている。すなわち、父親の死(病)が自らの《希望》がまねきよせた現実であると感じられた度合いだけは、《恢復を願ひ望む》心情には、その凶々しい《希望》の打ち消しという機制が含まれており、その分だけ強化されている。《残酷すぎます。残酷すぎます》とは、父親の死によって実現されてしまう自らの《希望》の《残酷》さをも意味している。
 しかし、一二月四日に父親は死ぬ。そのことは有島に《いい知れぬ開放感を与え》(山田昭男)(註19)たであろうか。あるいは、父親の死によって「芸術家、有島にとって幸いなことに、この矛盾(一一月八日の日記にあるような心的葛藤―引用者註)は、間もなく自然な形で解消した」(安川定男)(註20)であろうか。私には、父親(および夫人)の死が、「解放」であり「矛盾の自然な解消」であったとは信じられない。なぜなら、有島にとって父親の死はその医学的な原因がなんであれ、まず自らの《残酷》な《希望》の現実化だったのであり、そのことで彼の倫理意識が揺さぶられなかったはずはないからである。有島は「解放感」を覚えたかもしれないが、その「解放感」自体を罪悪視したことは疑うことができない。私たちは、有島の心性の本質が彼の内在的な自己抑圧・自己苛責にあると考えてきたのであり、父親の死という《事変》に限ってその本領が発揮されなかったとすることはできないであろう。
 さて、先に引用した一一月八日の記事のあと、翌年はじめからの備忘録的な懐中日記が再開されるまで、日記は全く途絶え、夫人の死の前後に詳細な記録が残されているのと著しい対照をなしている。新しい家長(代理)としての種々の雑務や看病や葬儀やで忙殺されたという条件は考えうるが、私は、この自己に対する沈黙ともいうべき日記の空白に、父親との関係の意味を対象化することの不能感を見ることができるように思う。有島が夫人の死によってうけた衝撃を一連の亡妻物で作品化したのに比し、父親との関係を直接の主題に据えた作品が最後の作品『親子』(一九二三・五)一篇のみであるという対照に、この不能感を象徴させてもよいが、おそらくそれは問題の単純化でしかない。なぜなら、この不能感は、『カインの末裔』(一九一七・七)、『運命の訴へ』(一九二〇・九)、『星座』(一九二一・七~一九二二・四)で、その構成の展開を妨げる障害となってはっきりと刻印されているからである。このことを逆に、有島は父親との関係の問題を生涯の課題とし、『カインの末裔』から『親子』にいたる一連の作品はこの不能感の克服をモティーフとしている、と云ってもよい。父親との関係の問題を『親子』一篇の存在に象徴させること(註21)が、問題の単純化であると断ずる所以である。
 不能感の刻印の様相を列挙してみる。

(a)『カインの末裔』(一九一七・七)
 この作品の、緊密でほとんど間然とするところのない構成のどこにそれが現れているかと云えば、それは、不運つづきで窮地に陥った広岡仁右衛門が農場主と《一喧嘩して》《小作料の軽減を実行させ》ようとする場面(第七節)である。一篇のうちその部分だけが破綻をきたしており、そのためにかえって目立つほどである。

 
 はったんの褞袍を着込んだ場主が、大火鉢に手をかざして安坐をかいてゐた。仁右衛門の姿を見るとぎろっと睨みつけた眼をそのまま床の方に振り向けた。仁右衛門は場主の一眼でどやし附けられて這入る事も得せずに逡巡みしてゐると、場主の眼が又床の間からこっちに帰って来そうになった。仁右衛門は二度睨みつけられるのを恐れるあまりに、無器用な足どりで畳の上ににちゃにちゃと音をさせながら場主の鼻先きまでのそのそ歩いて行
って、出来るだけ窮屈そうに坐りこんだ。
「何しに来た」
底力のある声にもう一度どやし附けられて、仁右衛門は思はず顔を上げた。[中略]
「小作料の一文も納めないで、どの面下げて来臭った。来年からは魂を入れ替へろ。而して辞儀の一つもする事を覚えてから出直すなら出直して来い。馬鹿」
而して部屋をゆするやうな高笑ひが聞こえた。[中略] 仁右衛門は高笑ひの一くぎり毎に、たたかれるやうに頭をすくめてゐたが、辞儀もせずに夢中で立ち上がった。

 《喧嘩》の勝敗はあっけなく決して、仁右衛門はすごすごと引き下がり、その翌日、彼は掘立小屋に火をかけて雪原の中へ《蟻のやうに》消える。有島はそれまでに何度か伏線を敷いて仁右衛門をひどく人見知りする自然児として設定しているし、仁右衛門の敗北という結果は地主対一小作という力関係の場においては必然的である。しかし、その敗け方、《喧嘩》の敗北の過程はけして納得できるものではなく、不自然で唐突の憾をまぬかれないのである。なぜなら、仁右衛門は人見知りをし人付き合いの極めて苦手な人間であるにもかかわらず、それまでは欲するまま全く傍若無人に振舞ってきたし、農場主代理たる《帳場》の恫喝など歯牙にもかけぬ反逆者ぶりを示してきたのであって、農場主との《喧嘩》においてだけなぜこうもあっさりと打しおれ、何らなすすべもなく《平服》(註22)してしまうのか、理解しかねるからである。仁右衛門なるキャラクターが、《自己必然の衝動によって自分の生活を開始する》《本能的生活》(『惜しみなく愛は奪ふ』)の理念を負わされた存在であることは明らかであり、彼に《已むに已まれぬ生に対する執着》(『自己を描出したに外ならない「カインの末裔」』一九一九・一)があるのなら、旧約創世記の故事にならって、《カインの末裔》たる仁右衛門がアベルならぬ農場主を撲殺し官憲から追われる身となって掘立小屋に火を放ち雪原の中へ《蟻のやうに》消えるとしても、この作品の主題にとってさして不自然な展開ではない。
 有島はこの作品が《もっと長いものであるべき筈だったのですが、雑誌社に制限されて三分の二位にしてしまったのです。あれでは駄目です。書きなほします。》(吹田順助宛書簡、一九一七・七・一九)と自作への不満を洩らし、著作集第三輯(一九一八・二)に収めるに際し改稿している。有島が最も《駄目》だと見なした箇所が第七節(最終節)、とりわけ《喧嘩》の場面であったことは、そこに最も大幅に手が加えられていることから明らかであるが、先に引用したのは定稿の方であり、私には、改稿によって有島の不満が解消されたとは思われない。初稿(『新小説』一九一七・七)では《喧嘩》の場面は百余字の概念的な説明でしごく簡単に片づけられており(註23)、定稿では種々のディテールが書き込まれて余程坐りよく肉付けされてはいるものの、仁右衛門の農場主に対する態度はどちらの稿でも《平服》的であり、そのしおらしさはそれまでの仁右衛門の行動に照らしてやはり不自然な印象を与えずにはいないからである。しかも初稿では農場主は仁右衛門に農場退去を迫っているのに対して、定稿では《来年からは魂を入れかへろ》云々と寛大なところさえ見せている。それにもかかわらず、仁右衛門は言いたいことも言えず《すっかり打摧かれて小屋に帰》るのである。
 私の連想は、《余年少父に侍して家にあるの時常に父を恐懼して、この児為すなしと迄のたまはせたる事ありき》という、すでに引用した日記の記事(一八九七・六・一二)に誘われる。作中に《親方は親で小作は子だ》という小作人の台詞があるが、そのことはここで無視してもよい。私は、農場主のこの威容には有島の父親についての原イメージが粘りついており、それが彼の想像力を呪縛しているのだと考えざるをえない。私の考えでは、有島は無意識裡にこの農場主と自らの父親を同一視し、父親の死を自らの《残酷》な《希望》の現実化として把えたためにそのことからくる罪障感に対する贖罪意識が、この作品の構成の展開を妨げたのである。云い換えれば、敗北することは必然的であっても、仁右衛門を果敢に農場主に《刃向》わせることは、有島の罪障感を逆撫でする展開であったために、仁右衛門は、有島の父親についての原イメージが二重映しになっている農場主の前に《平服》する他ないのである。有島がこの原イメージを全く無化することができないままに農場主の威容として表出してしまうという事態に、私は、有島の父親との関係の意味をトータルに対象化することの不能感の刻印を見るのである。

(b)『運命の訴へ』(一九二〇・九)
 有島が再び、この不能感の克服という課題に正面から挑んだ作品が『運命の訴へ』である。一長編として構想されていたこの作品は、ゆきずりの一青年が遺していった手稿を作家である《私》が公開するという、ちょうどサルトルの『嘔吐』のような入子型の結構をとっている。現存する未定稿(四百字詰にして約百枚)は、出版者=《私》が一篇の来歴を説明している序言と、青年の六つの手稿断片から成っており、その世界は因習と閉鎖的な人間関係が支配する上総の一僻村を舞台としている。手稿の趣意は、《総ての俺の過去を書き上げて見た時、俺が俺自身をはっきり目の前に据ゑて見ることが可能になった時、生きてゐられる筈のなささうな俺だけれども、どうかして奇蹟のやうにそこから確かな生に対する一路が開けわたりはしないか》という非望であるが、青年自身の《過去》はほとんど展開されないままで作品は中絶している。三つの断片では、村内で起こった自殺・発狂・殺人(未遂)等々の忌まわしい事件が主人公である青年の見聞として記録されており、主題を全面的に展開するための助走部と見なされる。一篇の主題とは何か。

 
 兄貴が死んだぞ。私の憎み切ってゐた兄貴が死んだぞ。

 第一断片の冒頭近くにある主人公のこの異様な叫びがあからさまに告げているとおり、それは近親憎悪=血肉葛藤の世界である。村内で生起するおびただしい惨劇にからめて主人公が吐き出す憎悪・呪詛の類を任意に抽出すれば――

 
おやじが啣へ煙草をしながら、傲慢な顔をして貧乏ゆすりをしていた。[中略]私にはその頃からおやじと叔父の顔は禁物だった。何だか急に自由を失って、恐ろしい一喝が今にも投げつけられるかと思ふ不安でぎこちなくなった。

 
おやじの平生を知って満腔の不平を持っていた私達兄弟

 
私の行く手はぶツつりとおやじの暴逆の手でからめられてしまっていた。[中略]新鮮な感情は無理往生にひしゃがれて、惰性で生きてきてゐたのだ。ただ苦しい気息をしてゐるだけだった。

 
おやじが一日でも早く死んでくれたら少しは楽な呼吸が出来るだらうと思ひくらさない時とてはなかった俺だ。

 
この二人の気違ひ(俺の眼からはおやじも気違ひだ)

 
おやじが疳の筋を額の真向に高々と立てて、家中の空気をどす黒く濁らす時がくるんだ。

 導入部でこれなのだから、《総ての俺の過去》が開示されたときの様相は、序言で《 自身にすら隠しておきたかったらうと思はれることが、自身以外の或る力に強ひられでもしたやうに、容赦なく書き連ねてある》と予告されているとおり、ほとんど正視するに耐えぬようなすさまじいものであっただろう。なるほど《毒血》であり、《私の傷口はまだまだ色々のものを吐き出すだらうと自分ながらいやな怖しい気もします》(野口幽香宛書簡一九二一・一・四)という述懐は額面どおり受けとってよい。しかしこの書簡の三ヶ月前、『運命の訴へ』は中絶している。《書いたものの上に薄い皮のやうなものが出来て、私の心持ちとどうしてもぴったりそぐはないのです。私はその薄い皮を破らうとして相当に働いて見たつもりですけれどもどうしても破れません。私は全く失望して執筆(『運命の訴へ』の―引用者註)を廃してしまひました。》(『「旅するこころ」書後』一九二〇・一〇・一〇)という事態に立ち至ったからである。似たような悲鳴は、同時期の方々への書簡でも洩らされている(一部の論者は、これを有島のウツ病説の恰好の症候と見ている―補論参照)。《薄い皮》とは何か。ここでも有島は、父親との関係の意味を対象化することにたいする不能感に見舞われているのではないのか。彼は、一篇の導入部でいきなり高鳴った近親憎悪の生々しさに《自分ながらいやな怖しい》思いをしたかも知れぬ。しかし、彼が《薄い皮》と感じたのはその《毒血》自体ではなく、それの噴出を妨げるものの存在をこそ感知したのである。《総ての俺の過去を書》くという主人公の趣意は、同時にまた有島自身のモティーフでもあった。だから、両価的であるはずの父親(作品においては《兄貴》や《おやじ》や《叔父》)に対する感情の一面的な放出は、《総て》を――というモティーフにとっては障害となるのである。つまり、このあからさまな近親憎悪の一方的な放出では『カインの末裔』の破綻のたんなる裏返しではないか――という反問が有島の胸中には生じたにちがいないのだ。この反問によってもたらされる困惑――両価性をその両価性のままの総体において対象化するための方法的な困惑――が、《薄い皮》なのであって、私はこの困惑を指して不能感と呼ぶのである。
 有島はこの問題を農場処理の問題と直接に結びつけた。彼は《毒血》をせき止める《薄い皮》の根拠が、自らが有島農場の不在地主であることにあると見なしたのである。『運命の訴へ』の執筆放棄直後(一九二〇・一〇)、有島は北海道に渡り、農場解放の具体的な準備を始めている。前出の野口宛書簡と同日付の森義雄宛書簡に《七八年前から親しい友人には話して解決したいと思ってゐたことが私の下らない殉情的な躊躇から未だ解決されずにあるのが禍根となって私は行きつまってゐるのです。然しこの難関さへ切りぬければ私の傷口からは新たに流れ出る生きた赤い血がまだ相当に残ってうゐると思ひます》とあり、この《禍根》は農場処理の問題を指している。この関係づけは、有島自身にとっては必然的であった。一面から見れば彼は、自らが不在地主でありながら農民の悲惨を剔抉することをその仮構上の主題とする作品を書くことの後ろめたさを押し切ることができず、それは作品の仮構に自ら眩惑された錯誤であったとも云えよう。しかし、より有島の思考過程に即せば、彼は、農場が父親の遺産であり、農場を含めた父親の遺産が自らの生活を支えて来たという事実が、父親への負債の意識となって《毒血》あるいは《生きた赤い血》の噴出をさえぎる――と考えたはずである。この負債の意識は拡張すれば、両親が産み養育した自らの存在そのものにまで行きつくことは必至である。『宣言一つ』(一九二二・一)は、この負債を引き受ける決意の《宣言》であった。

(c)『星座』(一九二一・七~一九二二・四)
 『宣言一つ』と相前後して書かれたのが、有島の屈指の秀作であり最後の長編となった『星座』である。有島の構想ではこの作品は《一つの長編創作の序曲たるべき第一巻》(『星座』自筆広告)であり、《あと千枚ほども書いたら多少目鼻》(牧山正彦宛書簡一九二二・四・二七)がつき、《第一巻位の厚さ(四百字詰約三百枚―引用者註)のものが、あと四冊位にはなる》(『「芸術と生活」書後』一九二二・七)はずであった。けれど、この構想は実現されなかった。《序曲》は、主人公の一人・園が突然の父の訃報に接して遊学の地・札幌から帰京する場面で幕となっており、第二巻以降の展開の一つの軸は当然父の死をめぐる園の対応であると予想しうるが、その第二巻以降を私たちは持っていないのである。私は、『星座』のこの中絶の仕方に、有島における父親との関係の意味を対象化することに対する不能感が象徴的に刻印されている、と考えるのである。

 云うまでもなく、これまで駆け足で触れてきた父親像の問題は、有島の作品が内包する多様な問題のうちの一つにすぎない。しかし、父親像のトータルな対象化という課題に対して有島がくり返し蹉跌し、不能感に見舞われたことは疑いない。逆に云えば、この問題は彼の生涯を貫通する主軸であった。そしておそらく、この問題の背後には、有島の倫理意識に発生的に孕まれざるをえなかった現実の支配秩序を支える規範意識との同型性という深刻な問題が存在しており、有島の「書くこと」のモティーフは根底においてはこの倫理意識の対象化―解体への志向性を含んでいる。この予測を確かめるためには、『カインの末裔』から『親子』にいたる作品系列をあらためてたどり直さなければならない。

(序論了)