十三回忌

 
父は左耳が片聾でかたつんぼ、軽い顔面麻痺もあった。 
軍隊の烈しいビンタで鼓膜が破れ、神経も痛めたのだ。 
師範学校の途中で招集されたから、余計に虐められたのだろうか。 
左からの声をよく聞きのがし、
笑顔の片頬が微かに引き攣るのを、
復員しても復学せずに百姓になったことと合わせて、
母は仕方なさそうに悔しがった。
  
兵隊の体験はほとんどど語らず、
老いてから作った歌[1]に往時の回顧は見えない[2]。 
出征した中国で現地の人たちと撮った写真が何葉か残っていて、
硯や墨をもとめた文房具屋の人たちか、 
食料調達相手の家族か、子供も写っているが、
誰だか聞きそびれてもう確かめようがない。
  
林房雄の「大東亜戦争肯定論」[3]は出るとすぐに買って、 
長く枕元に積んであった。
百姓仕事の後の疲れた寝床で、
繰り返し読んだのか、
なかなか読み通せなかったのか、
兵士体験を肯定する根拠を探し求めたのだろうか。
  
床の間の鴨居には天皇の写真が掲げてあり、
ときおりその前に端座して祝詞を唱えた。
収まらぬいかりを鎮めるための極く私的な儀式だったろう。
子供ながら近寄るのがはばかられた。
昭和が終わると真影はどこかへ仕舞われ、祝詞も絶えた。
子供に与えた世界史の読み物は、
浅野晃の「少年少女世界史談」[4]と、
ネルーの「父が娘に語る世界歴史」[5]だった。 
奇妙な選書だと思う。
  
中国への旅は何度か誘っても、
行きたくない、と断ったが、
ハワイ旅行へはすんなり応じて、
真珠湾のアリゾナ記念館[6]へはすすんで行きたいと云い、  
半日飽かずに見て回った。
同行した私は日本語訳も併記してある克明な攻撃の記録が執拗で気圧された。  
    
居間の長押には、沖縄で戦死した叔父が司令官からもらった賞状がずっと架けてあり、
生きていれば父の代わりに百姓を継ぐはずの人だった、と聞かされてきた。
木工にも長け、子供の勉強机にはもったいないほど大きな机はその遺作なのだった。
もう脚が衰えかけて杖が手離せなくなったころ、
沖縄へ弟の墓参りに行きたいと云いだし、同行した。
悪い脚で平和祈念公園[7]を摩文仁の丘から平和のいしじへとめぐり、  
果てしなく連なる墓碑群からようやく見つけた弟の名の前で泣いた。   
初めて見せた泣き顔だった。
泣き顔が顔面麻痺で歪んでいた。
 
  

  注
  [1]石井善市「自然薯じねんじょ人生」(橄欖叢書380、私家版、2005年)
  [2]同集の「青き海に濁流注ぐ揚子江広き河口を輸送船は征きし」一首はまれな例外。