AR/VR*

 公園の芝生で、アゲハチョウが一羽、舞っている。どこを目指しているのか、私を遠巻きにするように螺旋を描いて飛ぶのを眼で追う。そよ風にもよろけ、方向が定まらぬまま蛇行したかと思えば、どこから推進力を得るのかぴしっと直行したり、突風に煽られたわけでもないのに急に高々と垂直上昇したり、ひと羽ばたきでくるりと反転したり、予想のつかない飛跡を描く。この浮遊とも飛翔とも翻弄ともつかぬ運動を自由意志の体現と見てよいのだろうか。
 突風に煽られて目的地を見失う蝶、ジーと鳴きながら盲滅法に突進して枝にぶつかっては墜落する蝉、草の葉の尖端からついと浮上したのに前進も旋回もせずに滞空しているトンボ、どれも意志と行為がぴったりとは重ならず、わずかづつの失敗を含んでいるように見える。いや、失敗と見えた、とは傲慢な観察だろうか。擬人化が過ぎる。あのように蛇行し、あのように突進し、あのように静止しているのが、意図だ。
 サッカーで、敵をすれすれにかわし、くるっと反転しながら踵で後ろにボールを蹴り出したり、また向き直って二人三人四人の壁をすり抜けながら、倒れ込むのをこらえる力でさらにはだかる相手を跳ねのけて突進するストライカーの運動も、ボールが観客に不可視なら、蝶の飛翔に似ているか。蝶も蝶にだけ見え、外からは不可視の標的を精密に追っているのだ。蝉も、トンボも、きっと。
  架空の映像を現実に重ねて映す眼鏡が研究されている。その眼鏡にはコンピュータが生成した物体の像がまるで実物のように映し出され、現実の視野に重ねられて、当人にしか見えない物体が実在するかのように見え、掴んだり投げたりと操作さえできる。その仮想物を操っている人を外から見ても、不可解な行為にしか見えない。これは視覚体験を拡張する技術だが、そのうちに五感すべてに対してそれを拡張したり歪曲させたり加工する技術が現れるだろう。それは言語の発明に匹敵する事件になるだろうか。脳を騙す技術、脳を拡張する技術は、意識と無意識の境界に介入し、加熱食品が第三臼歯を退化させたことなどとは比較にならぬ進化的作用を及ぼすだろうか。文字が言語にもたらした荒廃を超える荒涼と豊穣を見せるだろうか。
  
  

     *注 Augmented Reality/Virtual Reality [拡張現実/仮想現実]