春の野原を歩く2

コロナ禍の緊急事態宣言下でも、近在の野っ原を彷徨徘徊する生活様式に変わりはなかった。眼にした光景のいくつかを記録しておこう。

飛ぶ虫を空中で捕獲するのが燕の狩りか。おそろしく精細な視力で獲物を狙い、羽ばたかぬ滑空の無音で、素速く獲物に接近し、嘴で正確に捕獲する。ときおり見せる急反転は、獲物を捕りそこねたときの軌道修正動作だろうか。
空に鳥影を探すのを難しくさせているのは、視力の衰えだけではない。視覚的には飛蚊症が、聴覚的には片耳の失聴が、両方から追い打ちをかける。飛蚊症は、水晶体のなかの濁りが空中に浮遊している微小な点として見えてしまう症状で、あれは鳥かそれとも水晶体の濁りかが瞬時には見分けがつかない。片耳が失聴しているので、さえずりがどの方角から来ているのか、ぐるりと体を一回転させてみなければ確認できない。しかも音源は活発に移動している。飛蚊症の視野の濁りと見紛う空の一点に望遠の焦点を合わせて、ホバリングしながら鋭くさえずる雲雀が捉えられると、素直にうれしい。標的にぴたりと照準が合ったときの射撃手の心躍りに似ているだろうか。いや、銃身を揺らさずに撃鉄を引くには心が躍ってはならない、とたしなめられるだろう。
はちきれそうに熟れて陽の光に半分透きとおっている茱萸の実。
雉は思わぬ所から不意打ちのように飛び立って、たいていシャッターチャンスを逸する。今日はあぜ道を逃げる雉を追いかけて、飛び立たせた。鶏などと同系で翔ぶのは得意でない。助走なしでは離陸できないし、空高くも上昇できない。飛行速度は地上を走るよりはやや速い程度。それなのにまるでピンぼけなのが口惜しい。
公園の桂の木の空洞に四十雀が巣を作り、子育てしているのを見つけた。観察していると、ひっきりなしに餌をくわえて飛んで来る。この頻繁さは、餌を採る時間を勘定に入れれば、雄雌替わりばんこなのだろう。勤勉で甲斐甲斐しく懸命な子育てである。巣に入るときは、まず近くの枝から周りの様子を偵察して一拍置き、安全と見れば空洞の狭い割れ目に素早く潜り込む。出ていくときは、目にも留まらぬ早さで割れ目を抜け出し、一気に飛び去る。空洞の奥深くで姿は見えないが、雛がしきりに餌をせがんでいる囀りは聞こえる。コロナ禍で休校の子どもたちが四六時中群れて遊んでいる公園の中である。誰か気づく子がいて、枝切れを突っ込んだりしないか。散歩の犬が嗅ぎつけて狩ったりしないか。気を揉んで1週間あまり過ぎ、巣から囀りは聞こえなくなった。無事巣立ったのだとしておこう。
耕作放棄地の草叢で野兎が耳をそばだてこちらを見ている。薊やカラスエンドウや蓬やの深い茂みの中から。

筍の皮を剥けば、穂先にいくほど節の間隔が狭まって、美しい円錐形が出現する。
筍を食うことは、その先端に宿る爆発的な力を我が身に一体化させようとする呪術的な儀式でもあろう。