色盲論

−−昔教えたことのある生徒は、緑の山を赤のクレヨンで描いた。その生徒は色盲だった。
小学校の先生がそう云った。色盲というのは緑のものが赤く見えることなのだ、そういう人の目に映る世界は私が視ている世界とは全く異なっている−−幼かった私はそう理解し、ある云い様のない不気味さにおののいた。
この気味悪い印象は何か底知れぬものだったので、くり返しほとんど反射的に、緑の山を見るたびに記憶に蘇ったが、何百度目か何千度目かに私は私の早合点に気付いた。緑の山が赤く見える人にはクレヨンの緑もやはり赤く見えるはずだから、緑の山を赤く描くという事態はけして起こりえない−−ということに気付いたのだ。実際は、色盲(赤緑色盲)というのは赤と緑の区別がつかないことなのだ。
私をおびやかしていた正体の定かでない底気味の悪さは、誤りに気づいた次の瞬間、あからさまな恐怖に変わった。それは、絶対的な独りぼっちの感情だった。私が見ているこの緑の色−−それがどんなものであるかを他者に了解させる方法が全くないのだ。私はいま、緑の山を見ている。それは言葉で云えば<緑>だし、クレヨンの色で示すとすれば緑色のクレヨンで塗るしかない。しかしそうして私が他者に示しうるのはただ、私がいま感受している光と<緑>という言葉の<対応関係>、あるいは、私の視覚が山の色と緑色のクレヨンに対してなす<反応の等価性>であるにすぎない。それは私がいま感受しているこの緑色の具体性、この感覚内容、とは全然別のものだ。私は赤が緑に見え、緑が赤に見える<色盲>であるかも知れないのだ。そして、こういう事態は、すべての色知覚、いや五官すべての領域においておこりうる!
−−プディングの証明は、それを食うことである。
と断言した思想家は、私の恐怖を妄想として嗤うであろう。科学者は、色知覚の生理機構の類的同一性と、各々の色の光の周波数の固有性によって、私とかれの色知覚の具体性が全く同一であることを証明するであろう。けれど−−
けれどもしかし、私がいま感受しているこの緑、この感覚内容。それをそのままきみに伝えることは、不可能なのだ。私はきみではない、という理由によって。そして、私がきみであり、きみが私であるならば、私はそれを伝える必要を失う。

  
  緑とはついに視野の痛みだ、痛みの名だ
  だから
  きみを刺す
  ぶつっときみを刺す ことがただちに
  私を刺す
  テロルが
  可能でなければならぬ